沖縄緊急レポート
1999.12.21
寄稿者は丸亀市城東町在住、瀬戸内海放送顧問、増田伸夫さん
| 「2000年・サミットをまえに」 | ||||||||||||
| 沖縄は、残り少ない今年の日数を呑み込んで、もう2000年の顔を見せている。 友人たちと気ままなツアーを組んで、那覇空港に着いたのは12月8日。 たまたまだが、第二次大戦勃発の日と同じ日付だった。 到着ロビーでまず目に飛び込んできたのは、「歓迎・沖縄サミット」の吊り看板。 来年7月のサミットに向けての動きがあちこちで見られることは、容易に想像できた。 「来年のことを言うと鬼が笑う」という言葉は、いまの沖縄では通用しない。 2000年の沖縄は、サミットのほかに、普天間基地の移転問題がある。まだある。 2000円札に守礼門が登場する。 話し声が聞こえなくなるような爆音に出迎えられて、那覇市内に向かうと、観光気分がいささか削がれる。 一息入れて、サミットの主会場となる名護市に入ると、先進各国の国旗が並んでいた。
会議が行なわれる建物の建設が急ピッチで進んでいたるのだ。 海に面した高台の広大な土地で、そこにたどり着くまでには、勾配30度くらいの長い道を登らなければならない。 ふと、戦国の武士が相手の城を攻めあぐむ図が頭をよぎった。
堅牢な構えの左右の門の外から辛うじて、カメラのシャッターを切った。 今から警戒厳重なのだ。 サミットひとつで沖縄に落ちる巨費は、地元にとって慈雨なのであろう。 ホテル、旅館業界が出しているリゾートマップも、「2000年サミットを成功させよう」という字が表紙を飾っていた。 翌日、「サミット夕食会は首里城開催が有力」との官房長官の見解が地元紙で報じられた。 旅程の最終日は首里城見学だ。 沖縄では、基地移転にからむニュースが地元紙の日替わりメニューだ。 普天間から辺野古(名護)への方針は出たものの地元は揺れている。 移転候補地の母親たちが、騒音を録音して「子供の将釆に基地はいらない」と市に突きつけた記事は印象的。 「基地があってもいいですよ。戦争が起こる訳じゃなし、潤うほうがいいと思ってます。」 行程を共にしたタクシー運転手の言葉を聞き、沖縄の揺れの振幅は振子のように大きいと感じた。 首里城は、朱一色で彩られ、建築様式とあいまって、琉球王朝の栄華を忍ばせてくる。 親方(ウエーカタ)と呼ばれる、眉の濃い沖縄特有の顔をしたガイドが随所に立つていた。 衣装は勿論沖縄の和装。「ここでサミットの夕食会が開催されそうですね」と話しかけたら「まだ分からない」とひとこと素っ気ない返事が返ってきた。 ここは、遺跡だ。俺は琉球王朝の牙城を大切に思っているだけだ。夕食会など関係ない。 −−そんな表情がおかしかった。代表的な観光スポットでのガイドの愛想のなさが、妙にべたべたせず不快ではなかった。
2000円札の図柄のことがなければ、長居しないで通り過ぎたかも知れない。 数年前、平安朝に思いを馳せて観た奈良の朱雀門の印象が強かったからかも知れない。 2000円札に写し込まれるであろう姿だけは、目に焼き付けた。 ひめゆり平和祈念資料館には、全国から修学旅行生が来ていた。 写真の「ひめゆりの塔」の石碑の奥に女子師範学校生と高等女学校生が最期を遂げた洞穴が見える。
資料館内には、当時の生活を撮った写真や女生徒たちの手記、それに遺品などが展示されていた。 遺品のうち、いろいろな形の櫛を目にしたとき、少女たちの黒髪が瞼に浮かび身震いを覚えた。 憤りなのか、憐憫なのか、俄に説明できない身の震えだった。 資料館内は撮影禁止。
見学を終えた女子高校生たちに感想を聞いた。何人かの生徒の口から自由という言葉が聞かれた。 「今は自由で本当にいいと思います。」とみんながいう。 平和の時代に生まれその中でとっぷりと生き、悲惨な時を経験していない人たちには、「平和」という言葉より「自由」の方が実感を伴った言葉なのかも知れない。
観光パンフレットは「エメラルドの海」と謳ってっている。 まじりっけのない緑と碧の絵の具を流したような海岸線を眼下にしながら、半世紀以上も昔、ここで展開された凄惨な死闘をだぶらせてみようとしたが、その体験のないものには、徒労だった。 |