MONG@の四国お遍路

2000.7.14

 第12番・摩廬山 焼山寺(性寿院)
標高800mにある。
古くから修験者の修行の地だった。
役行者小角が開いた、と伝えられる。
弘法大師は20歳とまだ若いころ、この地に修行に来ている。
大師が山に入ると、沼に棲む大蛇が火を噴いて、全山火に包まれた。
大師は水輪の印を結び、真言を唱えて大蛇を岩に封じ込めると、虚空蔵菩薩を刻んだ。
堂宇を建て像を納めると、山号を「摩廬山」、寺号を「焼山寺」とした。
「摩廬(まろ)」とは梵語で水輪を意味するそうだ。
昼なお暗い杉木立、直径6、7m、樹齢300年を超す巨木の間にいると、どんな伝説でも信じたくなる。
「義経記」には、武蔵坊弁慶もここで修行した、とあるそうだ。
一に焼山寺、二に鶴林寺、三に太龍寺と言われ、お遍路の難所の一つになっている。
徳島県名西郡神山町下分字地中318(JR徳島駅下車、バスで1時間半)
高野山真言宗
開基=役小角
本尊=虚空蔵菩薩
宿坊=100人収容
車で焼山寺に登る人は、第11番藤井寺から梨ノ木峠を越えるか、国道192号を石井町まで下って堂学寺トンネル経由で鮎喰川を遡るかだ。
いずれにしろ、焼山寺ふもとの鍋島の集落からは5kmは、急な坂を登ることになる。
大型バスならここで小型に乗り換える。
民宿や休憩所、食堂もある。
3kmほど急な坂を登ると、見晴らしの良い「杖杉庵=衛門三郎霊跡」に着く。
伊予荏原に衛門三郎という長者がいた。
強欲で、修行僧に施しをしないどころか、ある日、門前に立った托鉢僧の鉄鉢を奪って叩き割った。
ところが、その日からというもの、衛門三郎の8人の子が次々と死んだ。
悩んだ末、その僧が弘法大師と知ると、その跡を追った。
逆打ちで四国を回ること21回、大師に会えぬまま、この地で倒れた。
そこに大師が通りかかり、男の末期の願いを聞くと、伊予の領主河野氏に生まれて「善政をしきたい」と言う。
大師はその手に「衛門三郎再来」と記し、小石を握らせると、男は息を引き取った。
その後、河野家に小石を握った男の子が生まれる。
衛門三郎はこの地に葬られるが、墓標代わりに持っていた杖が立てられる。
やがて芽を出して大きくなり、「杖杉庵」の一本杉に育ったそうだ。
さらに2km登ると、出来て間のない駐車場に着く。
遠くまで見える。お寺に着くと、駐車料金300円を請求される。
駐車場からの参道は”森林浴”にはもってこいだ。
山菜や草花を探しながら登る人もいる。
「焼山寺の杉並木」は県の天然記念物になっており、山門付近に40本、本堂近くに15本、奥の院に100本ほどある。
怖い顔をした山門の仁王像
杉木立の中のアジサイは、梅雨のシーズンが過ぎてもずっと咲いていて、”下界”よりも寿命が長い。
境内の鐘楼には、大きな鐘が釣ってある。
蜂須賀公は釣り鐘二つを造り、一つはこの寺に、一つは徳島城下に納めた。
ところが、この寺の鐘の音は徳島まで届くのに、ご城下の方はどうも良くない。
殿様の命で、この鐘をご城下まで運ぶことになったが、鐘が「いなーん、いなーん」となって果たせなかった。
時が変わって第二次大戦中のことだ。
武器を造るため釣り鐘を供出することになり、馬車に乗せて山を下った。
ところが途中で、馬が急に腹痛を起こして動かなくなり、鐘は供出を免れた、と言う。