お城のある風景26  因幡・鳥取城

2001.12.7


因幡・鳥取城は、鳥取市の北に聳える久松山(標高263m)にある。
戦国時代、山名一族の内紛の舞台として登場、毛利・尼子の対立すると山中鹿之助まで顔を出している。
その挙げ句には、毛利攻めのため羽柴秀吉が送り込まれ、2万の大軍による大包囲戦が展開され、数千の領民が兵糧攻めの悲劇に巻き込まれた。
この城は、因幡の守護山名久通が天文14年(1545)、但馬の山名祐豊を争った際、久松山に出城を築いたのが始まり、という。
その後、但馬山名から出た山名豊國が尼子一族に属した山中鹿之助の手を借りてこの城を手に入れ、ここを因幡の拠点にして勢力を広げた。
しかし、尼子を倒した毛利勢の手がこの地に伸び、信長の前に立ちふさがると、天正8年(1580)の秀吉の中国攻めとなる。
秀吉はまず但馬・山名を倒し、鳥取に迫る。
領主山名豊國は秀吉に降伏するが、これに不満の家臣が毛利に援軍を頼んで籠城する。
兵、領民4000人が秀吉の大軍を相手に4ヶ月戦い、多数の餓死者を出して國人衆は自殺、城は秀吉の手に落ちて終わる。
MONG@


鳥取の市街地の北に聳える久松山。
鳥取落城のあと、宮部継潤が城主になるが、関ヶ原の戦いのあと、姫路城主池田輝政の弟長吉が入り、本格的な城の整備にかかった。
その山頂には本丸が築かれ天守があったが、元禄5年(1692)、落雷で焼け落ちたあとは再見されなかった。
お堀を渡ったところに、大手門跡がある。
大手門跡の右、校舎のある場所が「三の丸」で、今は県立鳥取西高校。
大手門の橋から西を望むと、突き当たりに見えるのが「北の御門」跡。
右の石垣の内側が「丸の内」。
「大手門」から久松山に向かって北に進むと、時を告げる太鼓を据えた「太鼓御門」跡まで来る。
画面左に「三の丸」、高校の校舎が建っている。
「太鼓御門」のすぐ北から「二の丸」への石段がある。
上を見上げると、ずっと上の方に「天球丸」の石垣が見えてきた。
山頂の「本丸」を除いて、鳥取城では一番高い場所にあり、藩主池田長吉の姉、天球院の館があったところからこの名が付いた。
久松山の中腹に築かれたこの大きな石垣は、遠くからでもよく見える。
この上に「二の丸」があり、城主の館が軒を連ね、西隅には「御三階櫓」東隅には「菱櫓」などが建っていた。
「二の丸」への石段から眺めた鳥取に市街地。
「二の丸」は毎年春になると花見で賑わう。
一段と石垣で高くなっている場所が「御三階櫓」跡。
本丸の天守が焼失して以来、この櫓が鳥取城のシンボルになっていたそうだ。
「二の丸」の南東隅にある「菱櫓」跡。
「表御門」跡。
ここから「天球丸」「本丸」に登る急な階段がある。
この石段をまっすぐ登ると山頂の「本丸」、右の進むと「天球丸」に至る。
山頂への登り口には、「熊が出没、危険」の表示があった。
「天球丸」から見た「表御門」跡(手前)と「菱櫓」跡(左)の石垣。
「天球丸」から東南、市街地の向こうには、因幡国庁跡など古代史の史跡が散在する。
南を望むと、学校、県庁、裁判所、検察庁など官庁街の向こうに「若桜街道」「智頭街道」「鹿野街道」の家並みが見える。
城の北西には、市街地を縦断する千代川が流れ、遙か彼方に日本海が広がる。