お城のある風景27 伯耆・米子城

2001.12.10


米子城は弓ヶ浜の付け根、中海に面した米子港の小高い丘「湊山」(標高90m)にある。
戦国末期、毛利一族は尼子一族を下すとその拠点、月山富田城(島根県・広瀬町)を手に入れた。
しかし、富田城は山間部にあって不便な所から、城主吉川広家は天正19年(1591)、米子の良港に目を付け、この地に居城を移す。
吉川広家が関ヶ原の戦い(1600)のあと、岩国に転封されると、駿河・駿府城主中村一忠が入り、山頂に天守、西北に内膳丸、北の麓に二の丸、三の丸を築き、伯耆17万石にふさわしい本格的な城下町つくりにかかる。
「米子騒動」のあと慶長14年(1609)、一忠が死ぬとお家断絶。
翌年、美濃黒野城から加藤貞泰が入る。
加藤は大坂の陣で戦功をあげ元和3年(1617)、伊予大洲に転封となる。
城主は次々と交代、加藤のあとは池田由が継ぐが、寛永9年(1632)からは池田(鳥取)の首席家老荒尾氏が城を預かり、明治に至る。
米子が商人の町として繁栄したのは、長く”殿様のいない町”で関所も出来ず、おかげで流通が盛んだったから、と言う。
MONG@


米子城の表門跡は湊山の東の麓にある。
国道9号に近く、そばには市役所、鳥取大学医学部、米子港などがある。
表門を入ると、「枡形」の石垣が続き、この階段から湊山の北の麓にある「二の丸」に登る。
「二の丸」への階段。
奥に見えるのは「小原家長屋門」。
その向こうにテニスコートがあった。
この建物はもともと、城を預かった荒尾家の家臣、小原家の所有で米子市西町にあったが、昭和28年(1953)に市に寄付されてここに移転、最近まで「市立山陰歴史館」として使われてきた。
市内では唯一の武家建築で市指定文化財。
「二の丸」のテニスコートの上に残る「御殿御用井戸」跡。
「二の丸」には藩主の居館があったそうだ。
井戸から山頂付近まで木々の覆われた急な石段が続く。
山頂近くで道が分かれ、石垣に沿って南に進むと「本丸」で、5重の天守と4重の小天守の石垣が残っている。
西北に、峰伝いには「内膳丸」跡が続く。
「本丸」付近の石垣は先の鳥取西部地震のため崩壊がひどく、いま復旧工事中で、立ち入り禁止になっていた。