お城のある風景35 但馬・出石城

2002.8.13

出石は人口わずか1万1000人、こんな小さな城下町に、年間100万人もの観光客が訪れる。
お目当ては、白磁の小皿に盛られた信州風味の「出石蕎麦」だ。
山芋を繋ぎに使った蕎麦を小皿に盛り、薄味の出汁にたっぷり漬けて食べる。
宝永3年(1706)、石川五右衛門を捕まえて有名になった仙石政明が、お国替えで信州・上田城だからこの地に入封したとき、蕎麦職人を一緒に連れてきて根付いた。
グルメ時代になって、蕎麦は健康食品として見直されてくる。
30年前、町を訪れる人はわずか年間8万人、蕎麦屋は4,5軒だった。
今は50軒近い。どこも観光客で賑わっている。
MONG@


出石城は慶長9年(1604)、小出吉英によって、有子山(ありこやま=標高341m)の北麓に築かれた。
中腹に見える櫓は、本丸跡に昭和43年(1968)復元された「隅櫓」。
手前の「登城門」も最近復元された。
5万8千石を領する但馬では唯一の近世城郭で、築城当時から、本丸上に「稲荷神社」を祀らている。
最近復元された「登城門(大手門)」と「登城橋」。
これより北3kmに、室町時代に山陰、山陽など11カ国を支配した守護大名山名氏の居城、「子盗(こぬすみ=此隅)城」がある。
応仁の乱(1467)の際、西軍の総大将、山名宗全は出石で2万6千騎を揃え、京に攻め入っている。
永禄12年(1569)城主山名祐豊の時、秀吉の但馬攻めで落城、祐豊はこの山頂に「有子山城」を築くが、天正8年(1580)秀吉の弟、羽柴秀長に攻められて滅亡している。
「三の丸」から「二の丸」に上る西側の石段。
眼下に「家老屋敷」などの屋根が見える。
「本丸の「隅櫓」。
「本丸」の上にある「稲荷神社」から見た「隅櫓」。
同神社から西北、豊岡の方向を望む。
市街地の右手の山裾に山名氏の居城「子盗城」跡がある。
城下町出石のシンボル「辰鼓楼(しんころう)」は明治4年(1871)、三の丸・大手門わきに建てられ、一時間毎に太鼓で時を告げていたが、明治明治14年、藩医が大時計を寄付して今の姿になった。
家老仙石左京の屋敷の長屋門。
左京は歌舞伎などで日本三大お家騒動とされる「仙石騒動」の主人公。
藩主の一族で1500石の知行があり、博学多才だった。
幕末の財政難の際、藩政改革に腕を振るうが旧守派の総反発を受け、幕府の裁断で江戸・鈴が森で刑死する。
この事件で出石藩は天保6年(1835)、3石に減封される。
「家老屋敷」は出石観光の”目玉”。
屋敷に上がった観光客は、侵入者に備えた「隠し二階」や名物「大名行列」の諸道具を見せてもらえる。
「桂小五郎占潜居跡」。
勤王の志士桂小五郎は「禁門の変」(1864)に敗れたあと、京で知り合った商人の手引きで一時この地に潜み、長州に戻った。
隣の蕎麦屋「よしむら」は城下町では一番古い店の一つ。
最近は「手打ち皿そば・小五郎」で売っている。
臨済宗宗鏡寺はもともと山名一族の菩提寺で「子盗城」近くにあり荒れ果てていたが、徳川家康の厚遇を受けた沢庵和尚(1573〜1645)時に城主に進言して再興した。
「姫御殿」は藩主吉英候の奥方の屋敷。
中の「東櫓閣庭園」は小堀遠州作。
明治時代初期まで、円山川河口の津居山港から城ノ崎温泉、豊岡経由で帆掛け船が遡上、物資を運んできた。
「おりゅう灯籠」は旧出石川の大橋東詰あり、船着き場の灯台の役をしていた。
100万人の観光客の訪れる古い街並み。
出石城の縄張り図